国際関係論で論じられる理想主義


リベラリズムほど解釈が多様にある言葉はないと思う。日本語では自由主義と訳される場合が多いのだが、昨今では自由主義とリベラリズムは対立する政治姿勢ともいえる。よって自由主義をリバタリアニズムと呼ぶのが一般的になりつつある。本稿の場合はリベラリズムを社会自由主義的な用法、ようするに国際関係論で論じられる理想主義として論じることにする。

20世紀の戦争

20世紀は戦争の世紀と呼ばれるように産業革命による技術革新が戦争を巨大化、無慈悲化させた。世界は巨大化・無慈悲化する戦争に対して、一定の規則を締結したが、その後に勃発した第一次世界大戦は大規模かつ無慈悲な消耗戦によりヨーロッパ社会に大きな衝撃を残した。

第一次世界大戦の塹壕戦や化学兵器の使用は、ただ敵を消耗させるための戦略で、それまでの戦争とは様相が大きく変化した。戦争は国家が軍に命令して、軍が名誉をかけて行う営みから、国家国民全体で行う営み全体戦争つまり総力戦へと変容した。

パリ不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)は大戦のような悲惨な戦闘を二度と繰り返さないために交戦国、非交戦国も含めて63カ国が署名した。目的は戦争の違法化、特に侵攻戦争の違法化を目指したが、最終的には侵攻戦争を非難するにとどまった。


貧困が戦争を起こす

もし社会が現状で固定されるとしたら、現在比較的幸福な人はいいが、もし不幸な人はどうだろうか。それはその人の希望を奪い去ることになる。国家同士の戦争もある一面では現状に満足できない国家と、それを阻止しようとする国家の営みといえる。

第一次大戦後ヨーロッパの比較的裕福な人々の間で戦争が二度と起こらないように、家族友人の死、あるいは戦争による破産などの不幸をなくすには、どうしたら良いか考えられたのは自然なことだ。そして彼らは結論した。「貧困が戦争を起こす」。

大戦中ロシアでは革命が起こりソ連邦が誕生する。国民(ソ連に国民がいたかは定かでないが)に貧困のない平等な生活を提供する統治体の出現に、ヨーロッパのエシュタブリッシュメントは期待と不安の眼差しを向ける。

リベラリズムの誕生

フランス革命の惨劇を経験しているヨーロッパの裕福な人達は、現状を維持しながら戦争を防止する政治体制の確立を急いだ。そのような背景でリベラリズム理論が誕生することになる。その理論は金持ちはそのまま、貧乏人はもう少しお金持ちにすることだ。

当時のヨーロッパ経済は植民地の存在なしには循環できない構造になっていた。第二次大戦後すべての植民地を失ったイギリスの没落はその典型だろう。先進国は自国に不利な貿易には関税をかけて、相手には無税を要求する。従わない場合には艦隊を派遣して屈服させるわけだ。

しかし裕福な人達は戦争のたび戦費調達で自国政府から自らの財産を掠め取られることに不満を持っていた。とくにグローバルに商いをしているビジネスマンほど不満は大きい。自国はいいのだが、一方の国では商いが制限されること、政府に強い権限があることは戦争を産むと考えるようになる。

自由貿易体制と国際連盟

現状は維持したい、しかし権力からの自由もほしい、彼らが考えたのが自由貿易による相互依存体制の樹立だ。国家の主権を制限して資本や製品、労働力の国境をなくす体制、それが国際連盟となって発足するのは大戦が終結してから2年後の1920年だ。

国際連盟とは国家の主権を制限して、地球に唯一の統治体を樹立して戦争をなくそうとする営みだといえる。国際連盟が唯一の統治体であり、他の地域はその統治を受けることになれば、戦争は統治体の統治力すなわち警察力と司法力で維持されることになる。

平和的でない秩序も平和

Peaceはラテン語のPaxで平定するという意味がある、Pax RomanaやPax Britannica、Pax Americanaはローマやイギリス、アメリカによる平和という意味だが、意訳としてローマやイギリス、アメリカに平定されたとも訳せる。つまり平和とは秩序のことだが、それは民主的でも、平和的でもない場合もある。

とにかくリベラリズムというのは現状を肯定した平和の希望だ。それは限りなく今いる人への思いやりの思想だといえる。それは悪くないがそこの先祖の名誉だとか子孫への配慮は薄い。そして幸福を物質で計るところは唯物的だ。

平和を実現するための平等

金銭的な公平感があれば大衆は戦争を欲しないという強い信念から国際関係ではリベラリズムを理想主義という。人には名誉という計測不可能な幸福感もある。その他、愛する人のためなら、子供のためなら、同胞のために、という感情は物慾では説明が出来ない。

現在、日本を覆っている反原発、反TPPも同様にリベラリズムだといえる。福島の住民を人身御供にして、自らの健康被害を食い止めようとする論理、自分が関係する業界が自由競争に巻き込まれ、自分が得られる利益が外国人に掠め取られる、などの議論は極めて唯物的だ。

彼ら彼女らにとっての配慮はあくまでも自分周辺ではないだろうか。人類のためという壮大なプロパガンダのもと、一部の特権を握った人が純粋な人々を巻き込んで目的を達成しようとしている。そういう意味では組合運動と似たところがある。

人への愛という部分ではリベラリズムもリバータリアリズムもコンサバティブも変わりはないだろう。しかしそれを実行する手法が違う。リベラリズムの典型が国際的には人道支援であり、国内的には福祉ということになる。

人への過剰配慮が自然を破壊する

両者とも強者の弱者への 配慮だが、誇りや名誉を持つて生きようとする人達への配慮はない。NGOは難民への支援をするが、それがそこでなんとか食料を作っている人達の生活を破壊していること、あるいは紛争を自助的に解決する機会を奪っていることにも気づいていない。

リベラリズムというのは人への過剰配慮によって環境―自然環境だけではなく歴史や伝統、努力や智恵なども含む―への配慮をしないために、医者が人を薬漬けにするように、人の廉恥心や自尊心を破壊して援助漬け人間にしてしまう、麻薬のような思想なのだ。

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