小和田恒悪玉論を問う ―衆 - 外務委員会 - 1号 昭和60年11月08日 その1

5月3日、憲法フォーラムで、自治基本条例に反対する市民の会会長の村田春樹さんにお会いした。その際に氏の国民新聞への記事のコピーを頂いた。内容は平成25年6月25日「小沢一郎在日説を嘆く」と平成25年12月25日の「小和田恒氏悪玉論を嗤う」と題した記事だ。両者とも刺激的な記事で、最後にこのような筆者からのメッセージがある。「小沢一郎在日説を嘆く」には「本紙発行後に民主党福山哲郎氏が帰化人と判明しましたが、本稿の趣旨は変わりません。本稿の趣旨へ科学的根拠のある反論をお待ちしております。」、「小和田恒氏悪玉論を嗤う」には、本稿に対する反論をお待ちしております。昭和60年11月8日第103回国会外務委員会の議事録を詳細にお読みの上にお願い致します。」とある。記事を読んで「村田さんらしいなぁ~」と感心したので、早速国会会議議事録会議システムで当該質疑を検索してみた。
問題の箇所は社会党土井たか子委員との質疑なのだが、中曽根首相の靖国参拝問題を引き合いに出し、日中関係についての質疑に関するところからなのだが、当初は当時の後藤利雄アジア局長が答弁をしていた。それを極東国際裁判の解釈へと誘引していく土井たか子委員の質問に、当時条約局長をされていた小和田恒氏が答弁をするところなのだが、ポツダム宣言、極東国際裁判、日本国憲法などの戦後日本の手枷足枷となった、諸法規解釈に対してぎりぎりの答弁を展開している。まず土井たか子委員はこう切り出して日航機がソ連側FIRに侵入した事件の質疑を日中関係に切り替えるところから検討しよう。

○土井委員 わかりました。それはさらに努力を積んでいただいて、ぜひとも来春の外相会談の席では、これに対して具体的に何らかの措置がはっきりできることを望んでいます。これはひとつ、努力方をさらに要請を申し上げたいと思います。 さて、ほかにも日ソ間の問題は基本的にございますけれども、きょうは特にあとの時間を靖国問題についてお尋ねを進めたいと私は思うのであります。  それでは後藤局長からお尋ねしたいと思うのですが、十月八日に後藤局長は急速、本当に急速訪中されたわけでありますけれども、どのような目的で中国にあのときいらしたのですか。

○後藤(利)政府委員 お答えいたします。  御案内のように、十月十日から外務大臣同士の第一回の定期協議が開かれるということでございました。そこで、せっかく外務大臣が行かれますので、私ども単に呉学謙、ウー・シュエチエン外 務部長との協議のほかに、できるだけ多くの要人の方にお会いいただいた方がいいということで、外交チャネルを通じていろいろと中国側にお願いしておったわけでございます。ただ、御案内のように、中国側はいろいろな御日程がありまして、その時点においてなかなか決まっておりませんでしたので、むしろぜひ今度の安倍外務大臣の訪中の意義をもう一度、鄧小平主任以下できるだけ多くの要人に外務大臣がお会いすることができて、この機会に日中関係を大局的にお話ししていただくことが非常にいいのじゃないだろうかという私どもの誠意を、東京におります私が参りまして中国側の関係者にお願いするということで、要人と外務大臣との表敬、会談の日程の最終的なお願いに伺ったということでございます。

○土井委員 局長、ちょっとそれは四角四面な切り口上でおっしゃるわけだけれども、急速いらしたのには、大変な御無理を重ねていらっしゃるはずなんです。今までの外務大臣の訪中についてこれだけ配慮して、これだけ局長自身が無理をして飛んでいかれるということはよもやございませんでした。飛んでいかれた当日は、外国の方とお会いになるお約束もあったはずであります。韓国の金泳三氏と会談されるということもキャンセルにした。しかも、航空券はなかなか手に入らない、難しいのに、無理をしてわざわざいらした。今おっしゃったような御答弁だったら、日本大使館を通じてアレンジできるのです。いつでもそのとおりやってこられている。特に、いろいろと事前の調整が必要だったのじゃないですか。

○後藤(利)政府委員 今御指摘のとおり、八日の夜、韓国の金泳三氏と私会食をさせていただきたいという日程を立てておりました。大変乱もこの会談を、会談というか夕食を楽しみにしておりまして、私、体が二つあったら両方に本当に出たいなという感じがあったわけでございます。急に参りましたのは、私としては、大使館を通じてそういう日程のアレンジができればいいなと思っておったのでございますが、なかなかできないということでございましたので、できないと言ったらおかしいのですけれども、十日に行きまして……(土井委員「おかしいですよ」と呼ぶ)いやいや、そんなことは絶対にございません。行きまして、鄧小平主任――何日の何時ということはあるいはわかるかもしれませんが、私、事務当局の責任者といたしましては、日中外相会議は初めてでございますので、外務大臣ができるだけの要人にお会いしたいという希望に万一にも沿えない場合には、甚だ私責任を感ずるわけでございます。金泳三氏にお会いできなかったのは、まことに残念でございます。  それから、九日でもよかったかなという感じはするのですが、たまたま飛行機が八日の午後にとれたというものですから、結果的には急速飛んでいったということでございます。本当にそれだけでございます。

○土井委員 大変無理な御答弁だと思うのですよ。それはだれに会っていただけるかという調整だけではなくて、大事な懸案の内容に対する調整もあったのでしょう。それは既に巷間はっきり伝えられています。中国側がただいまの靖国問題に対して非常に強い姿勢を持っている、このことに対して外務省としては対応方が要請される、この調整がありはしませんか。

○後藤(利)政府委員 八日に参りまして、九日に先方の外務部の次官、あるいは私のカウンターパートであるアジア局長と昼食などをしたことは事実でございます。その過程において、もちろん今の要人の表敬のほかに議題というものは、日中外相会談の議題は二国間で国際関係のいろいろなお話をしましょうということは既にお話ししておったわけでございますが、靖国問題について調整する等そういうような問題はございません。靖国神社問題というのは、もっと高いレベルの非常に政治的なあれでございますので、私がこれについて調整するというようなたぐいのものではないと思います。  ただ、靖国神社の問題について、昼食か何かのときに日本の公式参拝というのがあって、それは官房長官談話のラインで私がお話ししたということはございますけれども、それがいわゆる今先生の言われました調整とか、そういうことでは毛頭ございません。それはむしろ、外務大臣同士においてお話ししていただくべき筋合いのものであるというのが私の判断でございました。

○土井委員 それはそうだと思います。外務大臣から正式に言われるのが筋であろうと思います。しかしその前に、一応それに対してその席を通じて説明をされることぐらいに、この問題に対しては重要視されて行かれているのですよ。

○後藤(利)政府委員 靖国神社問題が、日本の国内あるいは関係国において今非常に関心があるということは当然でございます。私もこの問題については、小さい心を常に痛めてきておることは御理解いただきたいと思います。その意味で官房長官の談話をお話しして、外務大臣もその点については呉学謙外交部長と率直なお話をさせていただくであろう、その点はよろしく外交部長にお話をお聞きいただきたい、そういうことでございます。

○土井委員 それごらんなさい。今の御答弁を聞いていると、やはりそういう調整じゃないですか。中身についてどうぞ聞いていただきたい、そういう調整ですよ。  さて外務大臣、中国の靖国に対する抗議というものについて、これは内政干渉だというふうなことを発言する人がおるんですね。しかし、日中共同声明の六項を見たり、日中平和友好条約の一条一項を見てまいりますと、そこに言うところの内政干渉には当たらないと私は思うのですが、これは内政干渉というふうに受けとめていらっしゃいますかどうですか、外務大臣にお尋ねいたします。

○安倍国務大臣 この問題についてはいろいろと議論もあるわけですが、私と外務長官との話し合いでは、内政干渉とかそういう立場で話をしているわけではありませんで、あくまでもやはり日中関係の将来の問題、それからこれまでの日中関係のあり方、そういうものを踏まえた形で靖国問題にも触れて、特に中国側としましては、日本に中国の人民の感情をやはり十分知っていただきたい、理解していただきたい、こういう趣旨でございます。中国側が、初めからそうした内政干渉とかそういう意図でもって、あるいはそういう気持ち、立場で日本に対して注文をつけたということではもちろんありません。

○土井委員 今外務大臣としては、内政干渉とは受けとめていらっしゃらないというお立場でありますが、そうすると、内政干渉でないということになるなら、その理由は、どういうふうなところでこの抗議があるというふうに受けとめていらっしゃいますか。

○安倍国務大臣 これは、具体的な会談の内容についていろいろと申し上げることは、やはり国際間の関係でもありますから差し控えるのが妥当じゃないかと思いますが、中国側としましては、やはりああした学生の一連の動き等もあって、そういう中でとくに靖国神社の公式参拝というのが、何か一部のといいますか、中国の人たちから、国民感情から見ると、日本がまた今まで来た道から方向を変えていくのじゃないか、中国が一番心配しているいわゆる軍国主義といった方向に、こうした総理大臣の公式参拝というものを契機に道を変えていくのじゃないか、そういうおそれ、心配というものが中国側にある。そうした心配というのが学生等の動きになってもあらわれておるのだ、こういうことも言っておられたのであります。  ですから、私はそれに対して、日本のとった今回の総理大臣の公式参拝というのは、官房長官の談話にも尽くされておるし、この官房長官の談話というのは、やはり日中関係についても、日本がこれまでアジアの人たちに与えた大きな犠牲というものに対する反省は常にしていかなければならぬ、同時に、これからの平和のために日本は努力をしていく。今回の措置というものは、一般の戦 争の犠牲者に対して政府として弔意を表する、こういう形でやってきているわけで、中国側が心配しておられるような軍国主義への道を歩くとか、あるいはまた日中共同宣言に違反をするような立場で日本が何かやろうとしている、日中平和友好条約に背馳するような形で日本が何かやろうとしている、そういうものでは決してないのだ、これまでの日中間で約束し、結んだ原則、条約、基本というものはきちっと守っていきますということを、私からも詳細に説明したわけであります。

○土井委員 その外務大臣は詳細に説明をされたということも新聞記事に報道されているわけでありますけれども、日本政府の真意を説明しましても、中国側の立場というのは、A級戦犯を祭った靖国神社へ政府が公式に参拝した行為そのものが相互の信頼を裏切る、侵略戦争の被害者である中国人民の痛みというものを踏みにじるものだというふうなとらえ方があるのじゃないか、こういうことに相なるわけでありますが、この点はいかがでございますか。

○安倍国務大臣 そうした判断も、私は率直に言って中国側にはあるのじゃないか、こういうふうに思います。

○土井委員 そこでお尋ねしますけれども、中国側の理由というものが一応納得できるというものであるならば、日中間の関係を一層強固なものにしていくことのためには、納得できる内容に対して、日本としてはやはりこれにこたえるということが非常に大事な問題になってくると思うのです。日本は中国に対して侵略戦争を行い、大変多大の被害を与えたという過去の事情があるわけですけれども、この点に対して外務省としてはどういう認識を持っていらっしゃいますか。

○安倍国務大臣 過去、日本が中国あるいは中国の民衆に与えた大変大きな犠牲というものに対しては、日本としては深く反省をして、その反省の上に立って日中関係というものを進めていかなければならない、こういうふうに思っています。

○土井委員 その過去の大変な、向こうに被害を与えたということの反省とおっしゃいますが、これはやはり中国に対して日本は侵犯した、侵略をしたという事実に基づくところの被害が中国側にはあったという事実関係に相なると思われますが、いかがでございますか。

○安倍国務大臣 中国側がそういうふうに判断することは、それは日中間のこれまでのあり方からすれば、国際的にもあるいは客観的にもそれなりの意味があるのじゃないか、こういうことは日本としてもやはり十分受けとめなければならぬ、こういうふうに私は思います。

○土井委員 つまり、国際的に日本は中国に対して侵略をしたということが是認されておる、国際的それは認識である、このことを日本もはっきり認めなければならぬ、こういう関係になるわけですね。  東京裁判で「平和に対する罪」という概念が新しく出てきているわけですが、「平和に対する罪」というのは内容は一体どういうものなんですか。外務省いかがでしょう。

この質問に対し当時外務省条約局長であった小和田恒氏の答弁があるわけなのだが、それは次回にしようと思う。

少しここまでの当時の日中関係を補足しておこう。1985年8月14日に、首相の靖国参拝を中国側が突然非難をしてた。しかし15日の終戦記念日に中曽根は首相として公式に靖国神社参拝をする。戦後それまで、第43代東久邇宮稔彦王以下、第71代中曽根康弘首相の1985年4月22日までの38代12人59回の参拝には非難はなかった。1978年いわゆるA級戦犯の合祀以降も大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が、計21回参拝しているにも関わらず突然非難をしてきたのである。

その1週間前の1985年8月7日、朝日新聞が批判的に靖国参拝問題を報道すると14日突然、中国側が非難をしてきたという背景がある。その後は事あるごとにこの問題を外交の訴求にあげて来たため、中曽根康弘はこれ以降参拝を自肅している。この質疑は朝日新聞、そしてそれに呼応した中国政府の外交的な揺さぶりの渦中に行われた質疑なのである。

一方の中国側はというと、1977年に政権に復帰した鄧小平は、1978年10月に日中平和友好条約批准書交換のために訪日、日本の目覚ましい経済発展ぶりを目の当たりにする。同年の第十一期中央委員会第三回全体会議に於いて、文革の否定と改革開放が決定され、華国鋒の失脚で鄧小平は完全に政権を掌握する。翌79年には米中の国交が樹立すると、鄧小平は米国を訪問する。日米両経済大国の現状を目の当たりにした鄧小平は、より一層社会主義市場経済体制への移行を決意する。80年には趙紫陽が党主席、81年には自身が党中央軍事委員会主席、82年には胡耀邦が党総書記と完全な鄧小平体制が確立する。

鄧小平は趙紫陽、胡耀邦といった若手の人材を登用して改革開放路線を進めたのだが、そこには政権の座を追われた、ひと世代前の保守派長老たちや実力者もいた。鄧小平というカリスマのもと改革開放を推進していたが、それは副産物として民主化も釀成する。 鄧小平は経済の改革開放には肯定的であったが、民主化には否定的であった。いわゆる靖国問題が85年に起こると、この問題で中国国内の保守派の長老たちが、胡耀邦、趙紫陽の親日路線を追求し結局、胡耀邦は86年失脚することになる。

胡耀邦は83年に訪日し、中曽根首相との友好関係も良好であった。中曽根康弘は1985年8月15日の参拝を最後に、参拝を自肅したと書いたが、後年中曽根はその件に触れ、「親日派である胡耀邦が中国共産党内の批判にさらされて失脚する可能性があったからだ。それはどうしても困ることだったから」と述べている。1978年のいわゆるA級戦犯の合祀から、最初の批判までの7年間は、中国の権力闘争とその後の改革開放路線推進のためのため、日米の経済協力を必要としたため、靖国問題が外交の溯上に上がることはなかった。鄧小平の訪日時には、おそらく合祀は公になっていなかったが、胡耀邦の訪日時には報道その他で、中国側にも伝わっていたはずである。鄧小平とて7年間それを知らなかったわけではないだろう。

中国が「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝することは、中国に対する日本の侵略戦争を正当化することであり、絶対に容認しない」という見解を表明し続けていのであれば、その主な理由は「A級戦犯合祀」であり、78年7月からの約7年間の沈黙はどう説明するのだろうか。当時の自民党政権側には中国の政治情勢の変化が靖国参拝への非難の根底にあることはわかっていたはずである。中曽根の胡耀邦擁護発言の根底にもそれがある。しかし安倍外務大臣の答弁はその政治情勢を全く説明していない。当然質問者の土井たか子には靖国問題が、日中国交回復当初からの懸案事項で、日中共同声明や日中友好条約の基本的精神のように誘導しているが、それに対しての反論を安倍外務大臣はしていない。土井たか子委員の想定誘導質問の通りの展開になり、細かな条約解釈論に導き、小和田恒当時の外務省条約局長の登場となるわけだ。