国民が知っておきたい近現代史  ―支那事変から大東亜戦争まで

歴史は二つの側面をもつ、一つは歴史的客観的事実である。それは地形や日付などのように動かしがたい事実である。もう一つは民族の物語としての歴史である。本稿では前者を中心に議論を進めていきたい。明治維新(1868年)から大東亜戦争終戦(1945年)までの近代日本の歩みを「遅れてきた帝国主義」などとして、日本がアジアを侵略した時代と断罪している歴史学者が数多くいる。さらにこれらの結論をみつびく研究や出版を手助けしている機関があることもあるのも現実だ。近年米国でも日本研究をする学者が減少し、逆に朝鮮、支那の研究が盛んだと聞くが、これはそれらの研究をする学者に資金提供をする韓国系企業や中国系企業が米国の財団などを通して資金提供しているという。

歴史や安全保障などの学問は国家をあつかうのでどうしても政治的利益と直結しやすい。そういう意味では純粋な学問とは云い難いのであるが、それでも学問である真摯な姿勢が必要だろう。たとえば歴史書や教科書によく使われる言葉に侵略があるが、侵略という言葉には侵攻(侵出)と略奪という2つの意味を含んだ言葉だ。しかし純粋な軍事用語に侵略という言葉なない。敵国領土内へ進出して戦う戦争を「進攻戦争」、領土に進入してきた敵を迎え撃つ戦争を「防衛戦争」という。進攻を侵攻と書いたりするがこれもそれを行う側への悪意がある表現だろう。

太平洋側はハワイに鎮座する米国太平洋艦隊の圧力を受け、大陸からはソ連、国共合作でソ連の影響下にある毛沢東中国共産党、独国そして米国から支援を受けている蒋介石政権の圧力、台湾とフィリピンの間の海峡、バシー海峡は必要物資の輸入の生命線だが、米国は我が国の商船の航行を妨害する。日本の艦隊と朝鮮半島と満洲に駐屯する関東軍がいかに我が国の安全を担保していたかがわかる。これらの状況で石油の輸入を日本は米国に依存していた。その米国が石油の輸出を禁止したのであるから当時の我が国にとっては死活問題であったことはおわかり頂けるであろう。ではなぜ当時の我が国がここまで孤立してしまったのか、そのことを説明しておきたい。

1919年フランス、パリ、ヴェルサイユ宮殿で調印された条約がある。日本語の正式名称を「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約」、通称をヴェルサイユ条約、第一次世界大戦の講和条約である。この条約締結に先だち、米国大統領ウッドロー・ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表している。2月14日、日本全権である牧野伸顕が新設される国際連盟規約委員会において、連盟規約に人種的差別撤廃を入れるように提案をしている。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもので、国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であることは間違いない事実である。

このときこの提案に対する議決は11対5で賛成が多数であったにもかかわらず、議長国米国のウイルソン大統領は突然「全会一致ではない」という前例を覆す理由で議長権を行使して否決したのである。この大統領の行動は本国でも暴動が起こっている(レッドサマー1919シカゴ人種暴動オマハ人種暴動エレイン人種暴動)。この提案は植民地立国である英国の琴線に触れ、英国は連邦国豪州を使い最終的には米国を巻き込んでこれを潰したのである。この時の日本の提案は後年組織される国際連合の憲章に反映されるまで国際社会の共通価値とはならないのである。さらに米国はその5年後の1924年、排日移民法を成立させ日本人に対する差別的対立姿勢を激化させる。この2例は不平等条約を日露戦争によって払拭した当時の日本政府及び日本人に衝撃を与えることになる。

ハワイ併合やフィリピンの植民地化により、着々とアジア進出をしてきている米国がはっきりと我が国と対決姿勢を鮮明にした瞬間であった。さらに日露戦争以来同盟関係を維持していた英国がやはり政治的には我が国と価値観を共有しないことも鮮明になったのである。欧米列強はバランス・オブ・パワーの原理で動いており、話し合いではアジア各国の悲惨な現状は解決ができないとの思いを国民も為政者も強くするのである。

そして昭和6年9月18日満州事変が勃発する。満州事変については現在ソ連側からいろいろな史料が発見され、その全容はまだ解明されていない。前稿でもふれたが満州地域は群雄が割拠する不安定地域でこの当時の有力者は張作霖の子、張学良であった。張学良は駐留するソ連官吏を逮捕や満州域から追放したがソ連軍の反抗に会い、ハバロフスク議定書が締結されて逆にソ連影響力が強まる結果となる。日本側の公式な見解は「支那人は満州を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出さなければ、満州は清国領土から失われたことは間違いない。」というものである。

紆余曲折はあったが昭和7年3月1日、執政に清朝の廃帝宣統帝愛新覚羅溥儀が就き満洲国が建国される。しかし中華民国の国際連盟への提訴により国際連盟日支紛争調査委員会のリットン委員長による調査団が組織され昭和7年9月に報告書を作成提出する。この内容を不服として日本は1933年2月の総会決議の結果、国際連盟を脱退することになる。

国際連盟の結成は2国間同盟などによる対立構造を排除して、各国の協調により紛争解決を目論むものであったが、結局連盟内で白人諸国と有色人種で唯一独立国で常任理事国となっていた日本との対立が一層鮮明になったのみであった。特に英米アングロサクソン人種の外交の狡猾さは際立っていると言えないだろうか。国際連盟を脱退した日本は国際社会で孤立する一方、そのエネルギ-を米国からの輸入にたよっている現状、国内世論も分裂していくことになる。

歴史、特に戦争を考えるとき善悪で判断する人たちをリベラリストと呼び、生き残りをかけた国家間の活動であるととらえる人たちをリアリストと呼ぶ。そしてその戦略は地理によって限定されると考える学問を地政学という。当時(現在も)の為政者は政策に一定の科学的根拠を求めるとき地政学者の論文を参照している。ここで再度、上の地図をご覧頂きたい。日本列島と日本と対立する国々を引き離しているのが朝鮮半島であり、さらにその朝鮮半島を各国と引き離しているのが満州地域であることがお分かり頂けると思う。日本としては満州地域がソ連領になりそこに極東軍が配備されては朝鮮半島を守りきることができないと判断してもおかしくはない。つまり満州は当時の日本の生命線だったのである。そしてその状況を演出しているのが支那大陸に大きな権益をもつ英国とその元植民地の米国なのである。

さらに軍拡を進め再度欧州の覇権を狙うナチスドイツに対抗する必要から、できるだけ極東に対する脅威を軽減させる目的で、日本を支那大陸へ引きつけておきたかったソ連は、毛沢東共産軍を利用して日中戦争を演出する。これらの顛末は大東亜戦争劈頭、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織の摘発で明るみに出ることになる。いわゆるゾルゲ事件だ。当時参謀本部作戦部長であった石原莞爾などは日中戦争拡大に反対していたが、内蒙古での戦線拡大に対し現地軍に中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑され絶句したという。

また近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶されたという。これらのに日中戦争不拡大派の工作はあとからわかることだが全て近衛首相のブレーン、尾崎秀実とゾルゲ組織に潰されるのである。日本が侵略の意志をもって日中戦争を始めたと断罪する人々はこれらの事実をどう説明するのだろうか。断罪すべきは近衛周辺でスターリンの手先となって日本を戦争の惨禍に巻き込んだ連中であり、その工作にまんまとのった近衛ではないだろうか。

そして昭和16年12月8日、ハワイオアフ島に真珠湾に停泊中の米国太平洋艦隊を攻撃、これに決定的打撃を与えた。これに先だち天皇陛下は「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」を渙発する。開戦理由は「東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ」明治天皇と大正天皇の思いであるが、「米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ」のである。これを平和的解決を熱望するも米英両国は譲りあうことなく圧力を加えてくる。よって「帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」ということである。開戦理由は非常に明快である。全文はこちら

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