スキップしてメイン コンテンツに移動

マリリン・モンローはなぜ死んだのか。

1950年代の後半アメリカ政界に彗星のごとく現われ、その若さと清潔な印象、さらには新興とは言え東部有数の財閥の跡継ぎ息子。美しく才能があり、若き夫のさらに一回りも若いフランス風の名前を持つエレガントで貞淑なイメージの妻ジャクリーン。


華麗なる一族

最愛の一人娘キャロラインと暮らす立派な家庭人。大統領職になった以後もホワイトハウスを走り回る子供達と遊ぶファーストファミリーの父として、全ての国民から愛され、そして尊敬されたジョン・F・ケネディ。しかしその虚像は1975年まったくの偶然から国民の前に明らかにされてしまったのである。

現在では、ことケネディの私生活に関してのイメージは地に落ちたと言わざるを得ない。かつての「アメリカン・ヒーロー」の姿を追い求め、清廉潔白、人生の総てを合衆国に捧げた至高の人・ケネディを胸に描き神格化する人々にとっては、もはや「ケネディ神話の殿堂」の世界に奥深く入り込む以外に方法はなくなったと言えるのではないだろうか。

今回は誠に不本意ながら避けて通れない項目としてケネディの女性関係に言及してみたい。

1975年上院チャーチ委員会

ケネディ大統領の奔放で、時としては無軌道としか言えないような女性関係が表面化したのは、事件から12年した1975年、全くの偶然からであった。当時上院に設置された情報活動調査特別委員会が戦後、歴代のアメリカ政府による外国指導者に対する暗殺工作を取り上げて追及していた。

委員会はこの調査のなかでCIAがキューバのカストロ政権の打倒と、首相個人の暗殺工作を、ケネディ政権の上層部の支持もしくは了解のもとに進めていた事を明るみに出した。それだけでも、国際法や国連憲章に違反する重大な違法行為であるが、CIAがカストロ暗殺計画を進める中で、暗黒街の大物達の協力を得ていた事、こうしたマフィアのドンの愛人が、こともあろうに当時現職の大統領の愛人でもあり、ホワイトハウスや大統領の旅行先で数知れぬ密会を重ねていた事実が浮かびあがったのである。

1975年9月、委員会はこの愛人、ジュディス・キャンベル・エグスナーと名乗る女性を秘密の聴聞会に呼び出して話しを聞いた。しかし、あとで委員会が発表した報告書には、大統領とマフィアの共通の愛人は「ケネディ大統領の友人」とあるだけで、名前は勿論、住所も職業も、それになんと性別すらも書かれていない。

この「友人」は1960年初め、すき通るような青い眼、肩まで届く長い黒髪で大統領選挙中のケネディ上院議員を一日で魅了した、当時26歳の元ハリウッド女優であった。報告書にそんな事を書けば、ケネディ大統領の不倫が、こともあろうに議会の公式文書にのり、しかもアメリカ大統領がマフィアのボス、正確には二人のボス達と愛人を共有したという前代未聞の不祥事を公表することになってしまうからである。

委員長フランク・チャーチは委員長の権限を最大限に使って野党の公表要求を強引に封じ込めたのであった。それにしても、以降25年ほどの間に多数の研究者や関係者の証言、「情報の自由法」にもとずいて解禁された資料などで浮かび上がったケネディ大統領のプライベートな横顔は、どのような角度から見ても大衆を驚かせ、目や耳を疑わせるほどの異常さを帯びていることは認めない訳にはいかない。

この項目を制作している最中にに、またしてもわれわれの耳を疑わせる一通の新聞記事が掲載された。ケネディ大統領とあのドイツの生んだ永遠の美女「マレーネ・デイートリッヒ」との密会の記事である。

確かに1960年の初頭においてはデイートリッヒはすでに60歳を過ぎていたにもかかわらずその美貌は他を圧倒していたと言うが、それにしても、60歳は60歳である。この事が事実であったのならば、我々の心のなかにさらにその異常さに拍車がかかる事も残念ながら認めない訳には行かないのである。

しかし、この様な現実に目をつぶるよりは、ケネディの乱れた私生活を歴史的事実として受け止め、このような性癖や素行を持った政治家が、一方では1960年代の世界政治や国内の政治・経済・社会問題に勇気とビジョンを持って取り組んだ姿を、一つの壮大な「人間ドラマ」として見つめるほうが実り多いものになるのではないかと考えるのは一人自分だけであろうか。

父・ジョセフの影

ケネディの女性関係のあれこれに立ち入る時、常に痛感させられる事は、彼が生まれた億万長者の家が世にもおぞましい不健全な家庭状況であったことである。

ジョン・ケネディの父ジョセフ・ケネディはご承知の通り、飢餓に苦しむ故郷アイルランドを逃れて「新世界」へやってきた貧困移民の三世であるが、株式投機、映画製作、はてはマフィアと手を組んだ、違法な密輸酒事業に手を染め、まさに一代で巨額の富を築き上げた人物である。

評論家マイケル・サリバンは「貪欲こそがケネディ家の唯一無二のモットーであった」と厳しい言葉を吐いている。ジョセフは並みの一代富豪と違い、巨万の富を集めたあとも決して現状に満足せず、手を休める事無く、さらに多くの富、多くの権力、多くの名声を求めて突き進んだ。

彼にとって人生とは次から次へと果てしなく続く力比べであった。その生活信条からくるケネディ家の家訓は「ナンバー2は必要無い。常にナンバーワンであれ。ケネディ家の人間は勝つ為にのみ存在する」といったものであった。そしてジョセフ自身その信条は終生変わる事が無かった。

このような父親が、家庭で子供たちに見せる素顔に道義感がかけていたとしても決して不思議ではない。ジョセフは親代々のカトリック信者として厳しくしつけられて育ったにもかかわらず、事業の面でも家庭生活の面でも倫理観の留め金がみごとに外れていたのである。

父ジョセフの女性遍歴はこのページで一項目を設けてもとても足りないほどのものであり、それらの素顔を見て育ったジョンやロバート・エドワードの心の中に同様の「正義」が植え付けられていったとしても致し方のない事であった。

さらには、彼らケネディ兄弟にとって不幸であったことは、彼らの家族観、女性観を早い時期からねじまげてしまったのは、ジョセフの奔放な生活だけからくるものではなかった。

敬謙なカソリック信者で、夫が留守がちの家庭で数多くの子供たちを女手一つで立派に育て上げ「良妻賢母」のモデルのように伝えられた母ローズも実際には「母親失格」に近い女性であったことが明らかになっている。

ケネディ大統領が友人ビル・ウオルトンに語ったと言われる言葉が明らかになっている。ジョンが打ち明けた母親観とはこうであった。「母は直輸入のファッション洋裁店にいるか、教会でぬかずいているかのどちらかの日常だった。

本当に側に居てほしいときには、いつも家を空けていた。母がこの私を抱いてほほずりしてくれたことは一度もない。絶対に、絶対に一度も無かったよ。」

ジョン・ケネディが終生、数多くの女性と浮き名を流しながら、青年期のごく一時期を例外として、一度たりとも愛におぼれたり、相手に献身的な愛情を注いだことがなかったのは、こうした心理的な「両親不在」の寒々とした家庭環境からきたものと思われる。

そしてその悲劇は大統領自身の家庭においても演じられてしまったのである。彼は、上院議員時代の1953年に結婚したジャクリーンを人前ではごく大切に扱い、ホワイトハウスに入ってからも一貫して「愛妻家」のイメージを守り続けた。だがケネディにとって妻とは政治家の欠くべからざるアクセサリーでしかなく、決してそれ以上のものではなかったのである。

そして、自分に期待されるこのような役割を自覚したジャクリーンも、そうした虚像を自分の側からも積極的に作り上げ、夫とは全く別の世界で生きるようになる。皮肉なことにケネディは30年ほど前の父ジョセフの役割を、ジャクリーンは同じく義母ローズの役割をそっくりそのまま演じていたのである。

そしてケネディ亡き後のジャクリーンは自由を得た白鳥のごとくアメリカを捨てたのである。「最愛の夫を奪ったアメリカを、私は生涯憎む」という大義名分を翼として。

大統領が愛した「暗黒街の恋人」達

ケネディ暗殺事件の一年三ヶ月前の1962年8月5日一人の女性の死を伝えるニュースが全世界を駆け巡った。ノーマ・ジーン・モーテンセンと言う名の女性の死を伝えるものである。この名前では分かるまい、1950年代のアメリカと世界を沸かせた「性の女神」こと「マリリン・モンロー」その人である。
彼女の死は40年近くなった現在でも尚、自殺説、他殺説が交錯しケネディの死同様にアメリカ国民の猜疑の目でみられている。そのモンロー自身もケネディの愛人であり、「キャメロット伝説」の重要な脇役の一人であった事実は当時のアメリカ国民が驚きながらも、現在では受け入れられつつある。

しかも彼女の交友関係は一人大統領にとどまる事無く、弟ロバートとの錯綜した愛情関係がからんでいたと言う衝撃的な事実もあきらかになってきている。

写真は1962年5月20日、大統領の誕生日祝賀パーティーの席上でマリリンが「ハッピー・バースデイ」を歌って祝福した時に舞台裏で撮影された、ケネディ兄弟とマリリンの三人が写った写真であるが、この写真を見たロバート・ケネディは激怒し、この写真を司法省の権力を使って非公開とさせたと言われるいわく因縁付きの写真である。
彼女が死亡した頃のマリリンの自宅周辺はFBIやマフィアの手先達がうろつき、彼女自身の行動はこの二つの組織の完全な監視下に有った事が明らかになっている。

ではなぜ一介の映画俳優(とは言ってもモンロークラスになれば”一介の”とは言えないであろうが)の行動が公の国家捜査機関や暗黒街組織の監視の対象になったのであろうか?FBIの監視は国家安全上の大統領に対する”保護処置”との名目に守られたフーバー長官の延命工作の一環であり、同様にマフィアの監視はマフィア組織の存続をかけた対ケネディ一族との戦いの一環であった事は明らかである。

そして、このマリリンとジョン・ケネディとの交友関係の始まりにも、マフィアの魔手が働いていたという事実も又明らかになっているのである。ケネディ大統領の危険な「火遊び」の相手は、当然ながらマリリン・モンローだけではなかった。

80年代後半に公表されたFBIの報告によると、フーバー長官直々の指令でケネディのホワイトハウスを事実上”監視”していたFBI当局は2年10ヶ月あまりの短い在任期間中に、ケネディ大統領がホワイトハウス及び遊説先の各地で「親密な関係」を持った女性を少なく見積もっても32人以上であるとし、そのリストをフーバーに報告している。

この中ではマリリン・モンローの知名度には及びもつかないが、交遊の深さと、とりわけマフィアの巨頭と大統領の連絡をとりもったことで重要な役割をはたした女性が、前述のジュディス(愛称ジュディ)・キャンベルであり、その存在は際立っている。

ケネディは、大統領選挙戦中から始まり、当選して大統領就任後も二年足らずの間にジョージタウンの自宅やホワイトハウスで確認されただけでも約20回ジュディと二人だけの時間を過ごした。

ジュディがホワイトハウスにかけた電話の回数が約70回、すべてFBIによって確認されており、なかにはジュディのもう一人の愛人でシカゴ地区を取り仕切っていたマフィアのドン、サム・ジアンカーナの自宅から公然とかけていたものも含まれている。

ジュディの後年の回想によると、大統領とマフィアののボスとの共通の愛人と言うユニークな立場にあって彼女が「使者」として実現させたケネディとジアンカーナの直接の会談は10回に及び、その内の一度は所もあろうにホワイトハウスで行われたと言う。

モンローとジュディに代表されるケネディ大統領のきわどい女性関係は、当然ながらマフィア首脳たちから詳しく監視され、しばしば秘密のテープレコーダーで録音された。

これがマフィアによって脅迫の材料にされたら、ケネディの大統領職の遂行にも重大な影響が出るだけでなく、アメリカ国歌の安全保障にさえも影響が出る可能性が十分にあった。ジャクリーン婦人の従兄でケネディ研究家として知られるジョン・デービスは「200年に及ぶアメリカ大統領政治のパノラマの中で、モンローとジュディを相手にしたケネディの二つの情事は、きわめつきの”危険な関係”であった」と断言している。

その後のジュディスは大統領暗殺後、一時ジアンカーナと共に暮らし1972年一回り年下のプロゴルファー、ダン・エグスナーと結婚つい先年1999年9月27日、65歳で亡くなった事は談話室においてご報告した通りです。

利用された情事

モンローの監視、さらにはホワイトハウスの監視と、少なくとも政府直属の機関が直属の上司のトップである大統領の周辺を監視するなどと書いたが、ある意味では、フーバー長官が、アメリカ政府の神経中枢であるホワイトハウスにマフィアの巨頭たちの影響が及ぶのを恐れて、ホワイトハウスを秘密のうちに監視下に置いた。と、好意的に解釈する事は可能である。
しかし現実は違っていた。フーバー長官はその在任中「アメリカにはマフィアと言うような犯罪組織は存在しない」と公言していた事は有名な話である。

したがって、フーバーが部下達にケネディのホワイトハウスを監視させ、詳細な報告を本部に送らせていた最大の理由は、時の権力者ケネディの個人的な弱みを握り、FBI長官としての自分の地位を半永久的に守るための道具にしたと考えるほかない。

ある日FBIの執拗なまでの監視に思い余ったジュディは、ケネディに訴えた。国の最高権力者だから、政府の一組織に過ぎないFBIの「行き過ぎ」など、ツルの一声で終わらせてくれるものと期待したのである。

ところが、帰ってきた返事は意外にもそっけないものであった。「気にするな。連中はなにもしやしないよ。放っておけばいい、フーバーが私に仕返しをしているだけなんだ。あの妙ちくりんな野郎め!」というものだったとジュディは回想している。

そして1962年3月22日、決定的な瞬間がやってきた。この日の午後1時、フーバーはケネディ大統領からホワイトハウスでの昼食に呼ばれたのである。ケネディはこの会談でフーバーにFBI長官としての「引導」を渡すつもりであったといわれている。

若くしてフーバーの上司となったロバートは、自分が先頭に立って大々的に進めている犯罪組織”マフィア”撲滅運動にフーバーが全く協力する姿勢をみせないのに激怒し、兄、大統領に対してフーバーの更迭をしきりに訴えていた。

大統領はフーバーを嫌う点では弟にひけをとらなかったものの、政財界、報道界などに隠然たる影響力を持つこの老獪な官僚のクビをうまく切れるかどうか確信が無かった。そして、フーバーが自分の私生活の隅々まで熟知しており、フーバーと政治的に「心中」でもしない限り、FBI長官の座から追い払う事の出来ない事を、まもなくいやというほど知らされる事になるのである。

3月22日の会談はホワイトハウスの二階にあるダイニングルームで昼食をはさんで延々4時間に及んだ。同席したのはただ一人、大統領の”忠臣”オドンネル補佐官であった。会談の中味については後年いろいろな事が書かれているが、詳しい事は何一つ解っていない。

ただ一人生存しているオドンネルはずっと後になって、会談が終わったあとケネディが怒りを爆発させ「あの野郎を片つけてしまえ!どうしようもなく目ざわりな野郎だ!」と自分自身に叫んだと回想している。上品なカソリックの家庭に育ち、名門ハーバードを出ているのに、ケネディの乱暴な言葉つかいは知らぬ者とてなかった。

フーバー長官も、通常はいつも会談の内容を几帳面なメモとして残す事で有名であったが、この時ばかりは、一切のメモ、記録を残させなかったと言う。

しかし、あらゆる状況証拠を総合すると、この席上フーバーはFBIが集めた資料や情報の結果として、ジュディス・キャンベルなる女性が頻繁にホワイトハウスに電話をかけている事、この女性はマフィアの首領ジアンカーナ、さらにはその右腕と言われるロゼリと情を通じている事、さらにはCIAが暗黒街の首領達を動員してカストロ暗殺計画を進めており、ジアンカーナもその計画に参画している事などを大統領に告げ、早急な対応を要請したと見られる。

ジュディとの関係は1960年の時点でフーバーの耳に入っていたが、この会談の席上フーバーが直接大統領に向かって、マフィアの愛人と手を切るように進言したとは思えない。頭の回転が人一倍速いケネディには、きわめて間接的な表現で攻めるほうが効果がある事をこの老獪な情報官僚は熟知していたと思われるからである。

この瞬間、ケネディはフーバーの首を挿げ替える事をあきらめた。フーバーは合衆国大統領を相手に一世一代の「脅迫」を試み、まんまと成功したのである。

しかしながら、その後明らかになった事実、フーバーが自分自身では存在すら否定していたマフィアの首領達との「黒い交際」の事実が明らかになるに及んで、フーバーがケネディ兄弟の自分に対する憎悪が頂点に達していることを知った彼が、みずからの保身のために(勿論、積極的ではないにしても)何らかの陰謀を知ったと仮定した時点でそれを「黙殺」した可能性を全く否定することが出来ない状況下にあった事は、あくまでも「私の個人的な意見」とお断りした上での状況判断であると言わざるを得ない。

事実、フーバーを解任しようと試みた大統領は、彼が長官として仕えた7人の大統領の中でケネディ大統領ただ一人である。そして1972年、77歳のフーバーは現役のFBI長官としてこの世を去った。時の大統領ニクソンは彼の死にたいして「国葬」の礼をもって臨んだのである。

コメント

週間アクセスランキング

国際関係論で論じられる理想主義

リベラリズムほど解釈が多様にある言葉はないと思う。日本語では自由主義と訳される場合が多いのだが、昨今では自由主義とリベラリズムは対立する政治姿勢ともいえる。よって自由主義をリバタリアニズムと呼ぶのが一般的になりつつある。本稿の場合はリベラリズムを社会自由主義的な用法、ようするに国際関係論で論じられる理想主義として論じることにする。

20世紀の戦争 20世紀は戦争の世紀と呼ばれるように産業革命による技術革新が戦争を巨大化、無慈悲化させた。世界は巨大化・無慈悲化する戦争に対して、一定の規則を締結したが、その後に勃発した第一次世界大戦は大規模かつ無慈悲な消耗戦によりヨーロッパ社会に大きな衝撃を残した。

第一次世界大戦の塹壕戦や化学兵器の使用は、ただ敵を消耗させるための戦略で、それまでの戦争とは様相が大きく変化した。戦争は国家が軍に命令して、軍が名誉をかけて行う営みから、国家国民全体で行う営み全体戦争つまり総力戦へと変容した。

パリ不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)は大戦のような悲惨な戦闘を二度と繰り返さないために交戦国、非交戦国も含めて63カ国が署名した。目的は戦争の違法化、特に侵攻戦争の違法化を目指したが、最終的には侵攻戦争を非難するにとどまった。


貧困が戦争を起こす もし社会が現状で固定されるとしたら、現在比較的幸福な人はいいが、もし不幸な人はどうだろうか。それはその人の希望を奪い去ることになる。国家同士の戦争もある一面では現状に満足できない国家と、それを阻止しようとする国家の営みといえる。

第一次大戦後ヨーロッパの比較的裕福な人々の間で戦争が二度と起こらないように、家族友人の死、あるいは戦争による破産などの不幸をなくすには、どうしたら良いか考えられたのは自然なことだ。そして彼らは結論した。「貧困が戦争を起こす」。

大戦中ロシアでは革命が起こりソ連邦が誕生する。国民(ソ連に国民がいたかは定かでないが)に貧困のない平等な生活を提供する統治体の出現に、ヨーロッパのエシュタブリッシュメントは期待と不安の眼差しを向ける。
リベラリズムの誕生 フランス革命の惨劇を経験しているヨーロッパの裕福な人達は、現状を維持しながら戦争を防止する政治体制の確立を急いだ。そのような背景でリベラリズム理論が誕生することになる。その理論は金持ちはそのまま、貧乏人はもう少しお金持ちにすることだ。

日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 第1章

近代憲法は、主権者である国民の意志として、組織される政府に対する命令書なので、前文は、その意志を表現したものがふさわしい。そしてその目的を明確にする必要がある。さらにその目的のために、憲法を制定するわけなので、そういうことを頭に入れたうえで、再び前文を読むと、合衆国憲法は、

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。
目的意志がシンプルかつ明確に表現されている。これと比較して、日本国憲法における国民意志もしくは達成したい目的は、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。に色濃く現れ、

これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
が次にくる。なぜわざわざ一切の憲法と法令と詔勅と断る必要があるのだろうか。ここにこの憲法を制定した意志があるのではないだろうか。そして最後には、

国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

目的を達成することを、宣言命令するのではなく誓ふ。さらに誓ふ対象も明記されていない。我々日本国民は、誰に対して目標を達成することを誓ふのだろうか。 これに答えを出せる憲法学者や国会議員が、我が国にはどれほどいるのだろうか。国民はそれを疑問とも考えていないのだろか。

第 1 章はその意志を具体化する、そして目的を達成するための第一歩ということだ。最重要なことを最初に申し述べているのである。アメリカ合衆国にとって最重要なことは法の支配、法による秩序であり、日本国では天皇―スメラミコトによる秩序―これをしらすという―であるということだ。大日本国憲法では、

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

と統治の根拠となる天皇が過去、現在、未来に渡つて、日本国と日本民族の秩序の源であることを示している。この場合の統治とは伊藤博文が解説するように、しらすであり現実的な権力、うしはくと厳密に分けなければならないのである。

合衆国憲法は合衆国の秩序は法によって護られるゆえ、第 1 章では立法府についての規定が列記される。一方、日本国憲法では天皇についての条項が…

TPPとはなにか ―国際法・条約から考える

フェイスブックのTPPって何?の議論を通じTPPを検証してきたが、ここに来て議論が成熟してきた。JAなどがTPPの「聖域なき関税撤廃で農業はだめになる」という主張はWTO・GATTのウルグアイ・ラウンドで我国が聖域として議論した農産5品目が自由化されるという主張だが、TPPはWTO・GATTの規定内で交渉される自由貿易協定であるから、「聖域なし」は「実質上」と同じ「すべて」ではないという例外を表した言葉だ。

日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 前文

これから日本国の新憲法草案を提案しよう。どうしてそう思ったかは単純だ、今の日本国憲法は近代憲法の要件を満たしていないと思われるからだ。近代における国家は主権者である国民の国家形成への強い意志によって成り立っているとする。―するとしたのはもっと奥深い部分では違うと考えているが、近代に対応するためにそう仮定することにしよう。

近代思想において国家は、たとえ国民がひとりでも、国民意志があれば形成することができるとされる。しかしそれは利己的な個人意志ではない。五箇条の御誓文で公論と示された、意志を国民主権では民意というのであって、それがなければ近代国家は存在しないのである。さらにその意志は個々人の中にある不条理で熱い志であり、それを顕現しあるいは不当な隷属の強要から擁護されなければならないと考えている。

そして近代における憲法はその国家を統治する権力を制限するために制定するものであり、国民から政治権力への手紙であり、もっと強く表現すれば命令書として機能するのもである。よって国民が必ずしも従うべきものではないという性質のものである。
統治体というのは国際的には近代国民国家が国際関係を維持するため、またはその関係が破綻した場合に起きる紛争を解決したり、戦争を遂行し条約を締結するための代表府である。同時に国内においては共同体秩序を維持発展させるために制度や法律を制定する立法府、制定された法律をもとにそれを執行する行政府、そして行政が正しい手続きで行われているかを監視したりあるいは手続きの瑕疵を判断する裁判所などの組織のことである。

しかしこれらの組織は主権者である国民の自由を拘束したり法律を不当に行使したりする可能性があるので主権者は組織に対し、してはいけないことと、積極的にしなければならないことを文書によって命令する、それが憲法の本質なのである。そういう視点をもって世界最初の憲法らしい憲法であるアメリカ合衆国憲法と戦後アメリカの占領下制定された日本国憲法を比較してみよう。


アメリカ合衆国憲法(日本語訳)
前文
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。The Constitution o…

日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと 

日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと ー戦後の日本の解体は『菊と刀』から始まった 高橋史朗 WGIP ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム War Guilt Information Program をご存じの方は多いと思う。大東亜戦争に敗れ、我が国は、歴史上初めて他国の占領を受けることになる。占領当初、我が国指導者の目的は、いや日本国民すべてが、連合国による天皇陛下の処刑阻止にあったと言っても過言ではないだろう。評書は第3章で、昭和天皇の処刑を阻止するために、多くの婦人たちの力があった逸話を挿入しながら、WGIPについて新事実も含め詳細に分析を試みている。

誰が陛下の処刑を止めたのか 当初米国上院は、昭和天皇を戦争犯罪人として処刑することを全会一致で可決しており、マッカーサーは議会から、昭和天皇に戦争責任ある証拠を集めるように命令されていた。しかしフェラーズがマッカーサーに、

天皇を戦犯として裁判にふせば、日本全国に暴動は必死であろう。もし天皇を廃せば、全国的暴動が必死であって、特別警備区以外の白人は暗殺を免れない。
 覚書を出すと、マッカーサーも態度を一転、米国陸軍に対し電報を打つ。

天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺がが引き起こされるだろう。その結果、もたらされる事態を鎮めることは不可能である。天皇を葬れば、日本国家は分解する。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤慨は、間違いなく未來永劫に続くであろう。―中略―そのような事態が勃発した場合、最低100万の軍隊が必要である。軍隊は未來永劫駐留しなければならない。―後略― これによってこれによって米国政府は昭和天皇の訴追をやめることになる。これは比較的著名な事実だが、評書ではもう一つ、昭和天皇処刑方針を転換するにあたり、重要な事実を紹介している。 それは伊藤たかさんという婦人が、マッカーサーに宛てた直訴状、手紙だという。そして日付のあとには署名血判が押してある。当時の右翼はそのような直訴状を出していないということ、直訴状を出したのは婦人ばかりだという事実を紹介している。
 マッカーサーは昭和天皇と会見し、昭和天皇の "You may hang me" という言葉によって心動かされ、フェラーズの覚書、伊藤たかさん等、日本の婦人…

日本は〝心〟という字に見える ─ 日韓永遠の架け橋たらんとした悲劇の知日家・朴鉄柱会長 ─

戦後ソウルに設立した「日本文化研究所 (高千穂商科大学教授) 名越二荒之助 「朴鉄柱大人を偲ぶ」より

恒久的な日韓友好を考えるうえで、避けて通ることのできない人物がおります。それは朴鐵柱という一人の韓国人です。彼は大正十一年(一九二二)、釜山市の東?(トーライ)に生まれ、大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。卒業後は釜山の龍頭山神社や、新羅時代から関係の深い下関の住吉神社(長門一宮、元官幣中社)に奉職しました。彼は学生時代から古事記・日本書記を通して、日本の成り立ちと天皇朝の存在に深い関心を寄せ、その尊貴性に目覚めていました。だから彼としては、神社に奉職することに何のためらいもありませんでした。

終戦後は韓国に帰りましたが、李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられました。日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」にひっかかって追放の憂目を見ました。やがて朝鮮動乱が勃発。その荒波をくぐって生きのび、動乱が終るとソウルに出て、昭和二十九年五月には、「日本文化研究所」(ソウル特別市中区奨忠洞二街一九七)」を設立しました。「社団法人・日本文化研究所」の「内容書」は、韓日両国語によって書かれており、「趣意書」の冒頭は次のような書き出しで始まります。

「日韓両民族は、各自悠久なる伝統と文化を護持してき、上古よりの密接なる文化的相互交流は、両民族の芸術、風俗、道義観にまで相似共通のものを形成してきたのであります。特に一衣帯水の地理的条件は、お互の全歴史を通じて政治的、経済的、協助を不可避にし、文化的、精神的にも緊密にして不可分離なる関係を確立してきたのでありま
す。」

「趣意書」は大局観に立って、悠久の日韓のあり方を踏えたものです。しかしながら両国の間に、文禄・慶長の役のような「互恵扶助の原理に違背したとき」があった。それは「久遠なる歴史に於てひとつの瞬間的な疾患であり、両国の健全な将来と恒久友和のための契機」にしなければならないとして、研究主題を次の三つに置いております。

一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究

韓国で朴氏が「日本文化研究所」を設立した昭和三十年頃の日本は、敗戦のショックから醒めやらず、自国文化を
否定し、罵倒する言論がまかり通っていました。その頃韓国で、日本の精神伝統と国体研究の運動が起ったことは、文
字…

正しいTPPの止め方 ―条約承認の手続き

もはや原発もTPPも国民感情は否定的である。安倍総理は、にも関わらずそれらをやめると云へないことに深く敬意を表する。しかし双方とも安倍総理にしか止めることも止めることも出来ないのだから、決断は早いほうが国益になる。

さてTPPの議論で荒唐無稽なのは、交渉に参加したら抜けられないとか、条約は憲法より優先されるので大変だとはいう主張である。もし抜けられない交渉があるのであればそれはマフィヤか何かの交渉なのだろうか。抜けられないのであれば交渉とは呼ばないし、費用をかけて集まる必要もない。さらに滑稽なのは条約が憲法をも優先されるというものだ。国内法というのであればまだしも憲法より優先されるという議論には開いた口が塞がらない。そこで保守的アプローチ戦略第2弾として、憲法によるTPP阻止の戦略を議論してみたい。
憲法と条約の関係を以前国際法の教科書から抜粋して紹介したことがあるが、今回は日本国憲法の解釈学説の立場からの議論を中心に検証してみたい。まず条約を交渉する権限は、憲法の73条3項に、
条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。 内閣の権限として規定がある。少なくとも条約の締結は国民の付託により内閣の専権事項となっている。内閣が条約を締結することに対して国民から法的に異議を唱えることはできなくもないが、手続き的に正しくない。しかし国民が内閣の締結した条約に唯々諾々と従うのが憲法の規定かといえばそうではない。内閣の締結した条約を批准する手続きが規定されている。条文後半の国会の承認を経ることを必要とするとは一時的な熱狂で内閣を信任した国民が冷静になる期間を設ける意味で重要な手続きだ。

さらに、61条に、
条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。 と規定されるように衆議院優先の規定があり、予算案と同等な手続きが規定されている。これらはさらに7条の8、
批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。 と、陛下の認証を必要とする。これら、二重三重の手続きはなぜ設けられているのかといえば、それはやはり国民に冷静な判断を求めるためのクーリングオフ期間といえるのだろう。条約が締結された場合には、98条2項の、
日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。…

年次改革要望書

サイトで偶然みつけた原文の、いわゆる「年次改革要望書」だが、TPPと比較してみても面白い。アメリカの戦略なのか執念なのか、はたまた信仰なのか、1994年からもう20年くらいやってる市場開放交渉だ。我国政府も辛抱強くそれに対応していることがわかる。

アジアの精神と日本の役割 -講師朴鐡柱先生

朴鉄柱大人を偲ぶ」(平成3年発行)より093p-107p
私と日本 本日の皆様との出会いは、私、神様のお導きであると固く信じております。

私、現在不治の肺ガンに冒されておりまして、余命いくばくもありませんが、死ぬ前に、是非書き遺しておきたいと思う 一念で、「私と日本」という題で目下昼夜を分たず執筆致しておりますので、一応自己紹介も兼ねまして私のことを申し 述べさせて頂きたいと存じます。

私の生まれは釜山の東?という所でございますが、そこは非常に封建的でしかも反日思想が強い土地柄でありました。私の家は両班(ヤンパン)と申しまして大地主の家ですから、特に反日的雰囲気が強かったのです。

それで私、小さい時、日本で云えば寺子屋のような所に漢字の勉強に通わされておりましたけれど、偶々小学校から日本のおまわりさんが来られて、正式に小学校に入れなさいと両親に説得してくれたんです。しかし両親は聴いてくれませんでした。で、私はどうしても行きたくて、両親に反抗してハンガー闘争と申しましょうか。三日三晩納屋に閉じ籠り まして、やっとのことで許されて小学校に行くことが出来たんです。

どうしてこんなことを申し上げるかと言いますと、実はこれが後に私が日本に目を向けていく契機になったからなんです。

つまりこういうことがあったんですね。小学校二年の時、満州事変が起りまして、日本の兵隊さん達が釜山に上陸して大陸へ向かうんです。私、その兵隊さん達のお見送りに毎朝行っていたんです。勿論両親に見つかったら大変なんですが。そうすると、或る日一人の兵隊さんが側に来て、「君は一人で来たのか」と聴くので、「はい、そうです」というと、頭を撫でてくれましてね。もう兵隊さんに撫でてもらったかと思うと、うれしくて感極まったんですよ。

それで、その兵隊さんと長くおつきあいさしてもらうため文通しようということになって住所を教えたら、その兵隊さんから軍事ハガキを頂いたんです。その方は上野という上等兵でした。満州事変が済んで帰るので釜山で又会いましょうというんです。それで、今でも忘れませんが、駅前に鳴戸旅館というのがありまして、そこに一泊してその上等兵さんのいろんな身の上話を聴いたんです。

その方は、國學院大学の皇典講究所を出た方でございまして、「君は日本へ行ってもっと勉強しなさい」と言って下さったんですね。その…

米国の戦略 ―日米平行協議という法規戦

現在TPP交渉とともに粘り強く行われているいわゆる日米並行協議だが、平行協議が何故行われるかを論じた議論が少ないので考えてみる。いくつかの議論を参照してみても、日米平行協議の問題点を、その片務的な内容であると指摘するのみで、米国の狙いが経済的な分野のみだとする見解が多い。